二十四の瞳

二十四の瞳 (新潮文庫)

二十四の瞳 (新潮文庫)

二十四の瞳 (岩波文庫)

二十四の瞳 (岩波文庫)

壷井栄全集 (11)

壷井栄全集 (11)

二十四の瞳」全35回
朗読 : 藤澤恵麻(俳優)
テキスト :「二十四の瞳新潮文庫(1956年、S32年版)

過去、たびたび映画化、テレビドラマ化もされて、大人から子供まで感動を呼んだ昨年没後50年を経た作家・壺井栄の代表作「二十四の瞳」を朗読する。「二十四の瞳」は、壺井栄の故郷でもある瀬戸内海の島村(小豆島)を舞台に、島の分教場に赴任した新任の師範学校出身の女先生と、小学校分教場の児童12人との触れ合いを半生にわたり描いた心温まる師弟愛の物語。だが、物語は単なる教師と子供たちと触れ合いを描くだけではない。戦前の出会いに始まり、次第に日本が戦禍に巻き込まれ、教え子を戦地に失い、貧困に翻弄されて家族や学ぶ場、校友をも失う子供たちと主人公・女先生との半生を瀬戸内ののどかな島を舞台に、戦争の悲劇を真正面から見据えた反戦文学になっている。(昭和27年(1952年)に雑誌に連載され、のちに1954年、1987年に映画化された。テレビドラマ化もたびたびされており、NHKでは1974年に少年ドラマシリーズで放送化されている)

二十四の瞳」の背景
反戦児童文学の名作とされるが、文体は常に子供たちに目線を注いできた壺井栄の優しい視線が強く感じられる。栄は、裕福でもない小豆島の醤油樽職人の五女として育ち、家には兄妹10人、引き取った身寄りのない子を含めて12人の子供たちがいた。一家20人近くの大所帯の中、子供たちに分け隔てなく愛情を注ぐ祖母、両親の姿が「二十四の瞳」にだぶってゆく。そして人間を非人間の如く扱い、戦場に向かわせた日本軍国主義を生涯憎み、“反戦”を貫いた彼女の作家人生のベースになってゆく。


壺井栄
1899年(明治32年香川県小豆郡(小豆島)の生まれ。少女時代から病弱だったが文学には好んで接した。高等小学校卒業後地元で働いていたが、隣村出身の詩人・壺井繁治と知り合い、上京して1925年(大正14年)結婚。林芙美子平林たい子ら多くの作家たちと親交を持ち、見様見真似で作品執筆をするようになり、夫や周囲の計らいで同人誌や機関誌に載るようになる。1928年(昭和3年)以降、雑誌などへの掲載が続くが、佐多稲子から児童文学の執筆を勧められて、1938年(昭和13年)「大根の葉」を発表して評価され、その後多くの作品を執筆するようになる。そして、1952年(昭和27年)に「二十四の瞳」を発表して“小豆島”の名を全国に知らしめた。1961年以降、喘息に苦しめられ、入退院を繰り返しながら1967年(昭和42年)6月、喘息発作で亡くなった、享年67歳。
http://www4.nhk.or.jp/roudoku/315/
(後記)

全35回の放送を聴き終えて(2018.8.26)、図書館から借り出してきていたこのDVDを通して鑑賞しました(156分)。
最愛の夫(何と、死神博士の天本さん)や可愛い教え子たちを戦争で亡くしたこのような女性が、この映画が上映された1954年当時には実際に大勢、この国に居ただろうこと思うと、劇場で涙を流す観客が多かったことでしょう。
実によく出来ていて、原作者の壺井栄も絶対に観たはずです。黒澤映画の「赤ひげ」を観た山本周五郎が「原作より良い」と言ったそうですが、おそらく壺井もそう言ったのではないか、と思われるそんな高峰秀子の名演、原作の内容を膨らませた箇所(松江が浪花千栄子の店で働いているところを修学旅行引率の大石先生に見られたシーンや最後の自転車のシーン)に、私も涙が止まりませんでした。