何故、今 安部公房なのか

安部公房の都市

安部公房の都市

山崎正和さんが今朝の毎日新聞書評欄で苅部さんの本書について紹介されているのをじっくり読ませていただきました。山崎さんの本日の一文、至芸を感じさせる見事な書評です。
実際、雑誌連載中から注目してはいたのですが、いくら苅部さんでも何故、今 安部公房なのか、とこれまで手に取るのを躊躇しておりました。
それでも「この長編評論の魅力はそうした歴史家の手腕に尽きていない。安部のアンチロマン風の意匠を剥いで、中核をなす物語を読み解く分析は正確だし、無機的とされる安部の文体に詩的なリズムを嗅ぎ取る感覚は、まさに本格的な文芸批評家の真骨頂である」なんて言われると、これは覗いてみようかな、と思わずにはいられません。
高校時代、安部の『砂の女』なんてよくわからず感想文などとても提出できなかった私ですが、当時憧れていた美人のMさんが見事にそれを書いて、それが学校新聞に掲載されたのを読み、美人なだけじゃないんだなぁと惚れ直したものです。
山崎さんはその昔、受験によく出る作家として紹介されていて、私も高校の図書室で『劇的なる日本人』を手にしたこともありましたが読むことができませんでした。これを機に『不機嫌の時代』とか、司馬さんや丸谷さんとの対談集『日本人の内と外』、『半日の客 一夜の友』、『二十世紀を読む』(1996)等も読みたくなってきましたよ。
今日の山崎さんの書評は私にとって、憧れの彼女の感想文と似たような効果があったようですね。

◇「根無し草」の矜持を再発見する時代


 安部公房の作家生活の時代、日本社会は流転彷徨の相をきわめ、知識人は「根無し(デラシネ)草」の思いを深めていたと、苅部は見る。まだ戦争の余燼を残しながら、経済成長の予兆は急速な都市化の芽生えを見せ、生活空間は抽象的なコンクリートの塊と化す一方、無秩序な汚泥と廃墟を随所に生み出していた。

 同時にそれは歴史的には、日本人が敗戦の虚脱のなかで帰属意識の模索を始め、その結果かえって深刻な自己分裂を体験していた時代であった。典型的なのは1965年ごろ、「明治百年」を祝う気運が政府側で興ると、ジャーナリズムの主流はただちに「戦後20年」を守ろうという声で応じた。外交では日米安保体制を巡って左右が激突する傍ら、進歩的知識人の一枚岩が崩れて、共産党批判が左翼陣営の内部分裂を招き始めていた。

 政治思想史の権威である苅部は、この時代の明快な展望のなかに安部を据えることで、作家の特異な精神を浮き彫りにする傍ら、その普遍性をかつてない説得力で示唆することに成功した。安部は『燃えつきた地図』から『箱男』まで、一貫して都市の混沌を描き、唯一の歴史小説榎本武揚』では、歴史の断絶と倫理観の分裂を見据えた作家であった。苅部はこの都市の混沌と歴史の移ろい易さを同質の不安として捉え、安部をどちらにも耐える強靱な精神として解いたのである。

 苅部は対比列伝の名手であって、たとえば60年代の安部を位置づけるために、同時代の江藤淳の感傷的な東京懐古を引例する。アメリカ帰りの江藤は数年間の東京の変貌を慨嘆し、彼の知る米国の田舎町の安定を懐かしんだ。これにたいして安部は東京の雑駁さを知悉しながら、昂然と「都市からの解放」ではなく「都市への解放」が必要だと断言していた、と苅部は強調する。

 また『榎本武揚』が提示する忠誠心の倫理についても、苅部は江藤の勝海舟論はもちろん、政治的に安部の仲間だった花田清輝武井昭夫の批評と対比し、丹念に安部の主題の真意を追い詰めている。江藤と花田たちが思想的には対極に立ちつつも、結局は忠誠心の一貫性を求めて歴史を合理化したのにたいして、安部はひとり歴史の不条理な変化を受容し、時代ごとの倫理の相対性に耐える立場を貫いた。都市のなかでデラシネとして生きる人間は、歴史のなかでも同じ勇気と矜持をもって生きられるのである。

 当然、このデラシネの精神は、代表作『砂の女』を原点とする。砂漠こそは無形の力で人を押し流し、根を張ることを絶対に許さない陥穽へと閉塞するが、安部の主人公はあえてその底へ自己の意志で戻ってゆく。

 苅部はこうした安部の背景に満州生まれの故郷喪失を読み、共産党からの除名など身元証明を脅かす事件を指摘するが、この長編評論の魅力はそうした歴史家の手腕に尽きていない。安部のアンチロマン風の意匠を剥いで、中核をなす物語を読み解く分析は正確だし、無機的とされる安部の文体に詩的なリズムを嗅ぎ取る感覚は、まさに本格的な文芸批評家の真骨頂である。

 半世紀以上の時間を隔てて、安部と苅部という二つの知性を結んでいるものは何か。注目したいのは、安部が流転茫漠の世界における人間の手の働きを重視し、苅部がそれに熱烈な共感を寄せていることだろう。グローバル化とIT化の世界は、人の居場所がどこにもありどこにもない世界である。居場所を実感するために、視覚よりも身体感覚に頼らざるをえない茫漠は、今やかつてなく切実に身辺に迫っているのである。

http://mainichi.jp/feature/news/20120429ddm015070010000c.html