蓼喰ふ虫

谷崎潤一郎・作『蓼喰ふ虫』

※昭和3 (1928) 年12月4日付け〜翌 4年6月18日付け 「大阪毎日新聞」「東京日日新聞」夕刊 < 断続的に掲載>。
[ 出版は 小出楢重装幀 4年11月3日 改造社 ]

日本近代文学史にその名を欠かせぬ文豪谷崎潤一郎(1886−1965)が、生涯現役の大往生を遂げてから半世紀が経過した。今なお、ノーベル賞発表の時期には殊に、国際的にこの作家と作品が話題に上る。
氏は、西欧の新思潮に呼応するモダンな作風で東大在学中から文藝創作を始めたが、次第に関東大震災のため仮転居した京阪神以西の風土・ことば・人に強く惹かれて行き、<古典時代>と評される伝統的な美しい日本語を紡ぐ独自の世界を樹立したのだった。昭和24(1949)年文化勲章

この度は、谷崎文藝が青年期の西欧風から壮年・老熟期に到る日本古典風へと転換する、ちょうど“橋わたし”ともいうべきユニークな作品『蓼喰ふ虫*』に耳を澄まして作者の“思い”を味わいたい。
http://www4.nhk.or.jp/roudoku/315/
谷崎潤一郎・作『蓼喰う虫』」全30回
朗読: 長谷川稀世(キヨ)氏(俳優/青年座映画放送部)
テキスト : 蓼喰う虫 新潮文庫(昭和26年発行/平成24年8月30日 76刷 改版)

東京人の斯波 要(シバ カナメ 37-8歳)、美佐子(28-9歳)夫妻は、関東大震災後大阪に拠点を移すが一向に馴染めないまま、“性格上の不一致”が如何ともし難く仮面夫婦の数年を経て、美佐子に将来の再縁相手が現れた今、離婚し、それぞれの青春を生き直そうと合意した。が、小四になった一人息子弘への気兼ねなどもあり、要はなかなか決断できずにいる。唯一の理解者従弟の高夏(タカナツ)秀夫が上海の店から商用で帰国する度に弘の相手になってくれて、早く決着を付けろと二人に忠告する。
美佐子の父は京都鹿ヶ谷に隠居して茶人老後を楽しんでいて、二人を大阪文楽見物に誘って来る。藝事・料理その他諸々を父親好みに仕込まれた22-3歳の妾お久を、モダン・マダム美佐子は断固無視するけれど、白人女神崇拝派だった要は、人形芝居や上方音曲、そして京阪神以西の風光・人声に次第に魅せられて行く。そして、文楽人形にも似た「お久」に関心を寄せる自分に気付かされ、ついに離縁状を認める。