2004年4月からの私とシロフクロウさんのコラム

今日は平日の木曜日でしたが、体調不良と称して仕事を休みました。こんなことは就職して以来初めてではないかとも思いますが、不思議と罪悪感のようなものを感じませんでした。むしろ、久し振りに我が息子と二人で食事ができたのだから、むしろ好日であったのではないでしょうか。
しかし、息子と話しながら、「ああ、この俺は、こいつが中学に入学した2004年4月以来の6年間、なんて罪なことをしてしまったのだろう」という贖罪ともいえる気分に襲われてしまい、何とも申し訳ない気持ちになってしまいました。こうなった原因の大きなものが私の短気さ、頑固さ、忍耐力の無さにあるのです。
この、同じ2004年4月から、カントリーミュージックがお好きなシロフクロウさんという方が「四方山話」という音楽コラムをネット上に書かれているのですが、勿論、偶々なのでしょうが、愛読者として関連付けておきたいと思います。
http://countrymusic.jp/yomoyama.archive.html
特にお気に入りのコラムは以下のとおり。

☆第11話=2004年6月24日・オーディオが支配するもの

fukuroo3がハイティーンの頃に聞いていたのは、ビリー・ボーン楽団やマントバーニ楽団など、洋楽ボップスオーケストラでした。
ラジオの電話リクエストなどでは、映画音楽も人気があったし、ステレオ放送でなくてよければ、ささやかですが洋楽は聞けました。
昔から日本のお上はラジオ局開設認可には消極的で、下々の民にはモノを言わせず、ナニもさせず、という政策をとっていたようです。
ですからFMステレオ放送はNHKとFM東海という2局だけの時代が続き、まことにお粗末なものでした。 50年経った今もたいしたことはない。

当時のアメリカには何百というラジオ局が有り、カントリー音楽専門の局が有るということを伝え聞いていたけれど、貧乏島国日本では全く聞けなかった。
20代の半ばになると、既にオーディオ命の暮らしになっていましたが、主に聞くのは洋楽ポップスと共に、クラシックが増えてきました。
しかし、その内容はというと、人間の声が入っていない器楽曲ばかり。カントリーもそうだし、モーツァルトだって歌が入っているものは敬遠していた。
この原因はというと、後から解ったことだけれども、使っているオーディオによって、聞く音楽が支配されていたのですね。
普通の音楽ファンの方は、なんだ!そんな事があっていいものか!オマエの趣味嗜好はそんなに安易なものなのか!と、言われそうだけれど。
オーディオの構成機器の中でも、スピーカーの支配力は圧倒的で、どのスピーカーを使うかで音響の性格の70パーセントは決定されます。聞くユーザー側のジャンル嗜好傾向にまで、その支配力が及ぶようになる。 使う側の力量が問われるということもある。

fukuroo3が、これほどまでにボーカルを愛好するようになったのは、22年ほど前、スピーカーをパラゴンに替えてからのことです。パラゴンはさまざまな分野の音楽を、十二分に魅力的に聞かせますが、中でもボーカルを聞くと独特の魅力的な歌声を聞かせてくれます。一般の方々は体験することが出来ないのが、こういうハイエンド・オーディオの世界であり、例えにも苦労するし説明しがたいのですが、CDに録音された歌手の声を聞いているというより、パラゴンが歌っているボーカルを聞いている。ということが言えます。
この件で、どこかの喫茶店に置いてあるパラゴンを聞いた方であっても、その音がパラゴンの音だとは絶対に思わないでいただきたい。

オーディオ評論家達はこう証言しています。「お店とか公共の場で、良い音で鳴っているパラゴンは無く、個人宅でなら良い音が聞けた例が有る」
世の中には、ボーカルを魅力的に再生するスピーカーが、他にも存在しますが、それぞれ独自の(歌声)を聞かせます。良く使いこなされた場合には、生のコンサートよりも遥かに魅力的に聴くことができます。 これがオーディオの醍醐味でもある。オーディオを極めれば、生コンサートより魅惑的な歌声を、好きなときに好きなだけ聞けるという至福の時間を得られます。また、そうでなくては、オーディオをやっている価値がないとも言えます。
生コンサートも良いものですが、これはその時、その限られた空間の中でだけ存在しうる一過性の限定された事象で、再現性は無い。生には自分の感性を投影する余地は無く、演者と観客との間の心の交流というものは有るにしても、基本的には聞く側の自由にはなりません。
オーディオなら創造できる喜びがあり、自分の感性を投影できるということは、すなわち芸術性を持った趣味の世界であるという事でもあります。
http://fukuroo3.com/paragon1.html
http://fukuroo3.com/paragon2.html
☆第16話=2004年9月7日・オーディオはスピーカー次第

ここは音楽コラムですが、オーディオの話も、しておこうと思う。
私の愛機であるパラゴンは、幸せなことに贅沢を言わないスピーカーだ。流石は育ちの良いお姫様だと思う。
どういうことかというと、高価なアンプを必要としないからだ。食い意地が張っていないのが、育ちの良さである。貧乏なスピーカーほど、高価なアンプを欲しがるものだ。これは人間にも言えることだけれども。
この10年ほど、ハイエンドオーディオアンプは、プリとメインのセットで500万円ほどの製品も珍しくなくなった。この頃のスピーカーは、そういう高価なアンプを奢ってやるほど良い音で鳴るのだという。ふ〜む、卑しい奴等であるな。
私の愛機パラゴンなんて、たかだか150万円程度のアンプで朗々と鳴り響くのだから立派なものだ。
勿論、私もオーディオファンの性として、もっと良い音にしたいという欲求はあるので、
マッキントッシュパワーアンプMC1201が欲しいとは思う。ただ、今の機種でも充分に満足しているけれどもね。

いつも思っていることがある。
私のパラゴンが好例だが、オーディオの黄金期に製作された銘器的スピーカーは、大変な物量を投入した製品です。
よって、100デシベルを超える高能率であるから、駆動するアンプに多くを要求しないのだと思う。
対する近年のスピーカーは、新技術を標榜しているけれど、能率が悪いから、アンプに依存する度合いが高い。
能率が鈍い近代スピーカーは、鈍感な女と同じである。
鈍感なだけに使いやすくて破綻することもなく、美味いもの(高価なアンプ)さえ食わしておけば文句は言わない。
ある意味、いたって扱いやすいのである。
総括すると、昨今のアンプ大出力化&高性能化によって近代スピーカーが成り立っているとも言える。

fukuroo3は、いたずらにヴィンテージ・スピーカーを礼賛するものではない。
私のオーディオ・ウェブサイトには「JBLヴィンテージ」というコーナーが設けられており、
昔を懐かしむ意味で、小型のブックシェルフスピーカーも紹介してはいるが、お薦めしているわけではない。
オーディオの黄金期のJBLスピーカーも様々な機種があるが、自信をもって人に推薦できる物はというと、
コンプレッションドライバーを使ったものが対象で、こういうクラス以上のスピーカーシステムに限られる。
実例で言うと、ランサー101が最低限で、オリンパスあたりから本格的なヴィンティージとなる。
ヴィンテージ・スピーカーも、いっぱひとからげには出来なくて、現代に通用しないものも多いのです。


☆79話=番外編★2009年11月25日・老人化する町。

千葉市内の自宅がリフォームをしており、現在は妻の実家に転居しているのだが、今日で5日になる。
ネット環境が無い場所で記事を書いてもアップロード出来ないが、第79話を書き留めておきます。

人間は住む環境が変われば、自ずと変わるらしいが、酒々井町に引っ越しをしても、たいして変わらない。
この五日間、一歩も外に出ていないし、相変わらずの出不精である。
28日には、新型インフルエンザのワクチン接種のために本来の住所に戻るが、少しは外にも出なくてはね。

妻の旦那フクロウが、郵便局などに行って用足しをするというので、駅前スーパー買い物をしてもらった。
ついでに、私の主食である【お菓子】を買ってきてもらおうという魂胆であります(笑)。
で、帰宅した旦那フクロウから話を聞いたけれど、この町は、老人の町になっていると感じた。

郵便局のATM前で、何度も何度も入力を間違えて、なかなか引き落とせない老人もいれば、
スーパーのレジで、素早く精算できない老人の後に行列が出来ていたりする。と、妻が言う。

人口構成からして、いずれ日本の市町村は、老人国家になると言われてきたけれど、
酒々井町もまた新興住宅団地らしく、広大な住宅団地全体が老人の町になってきたのだろう。
なにせ、こうしてパソコンに向かっていても、町の物音がしないし、通りには人影が少ないのである。

全国至る所に、この酒々井町のような住宅団地が出来ており、その多くが老人の町化しているのだろう。
本来の町というのは、交通の要所だから町が出来たり、物流の拠点だから町が出来たり、もの作りをする工場があるから町が出来たり、そういう必然性があって出現するものだが、近年の住宅団地というのは、そういう理由から出来た町ではない。

突如として郊外や山の中に出現した住宅団地というのは、自ずと陸の孤島的な性格を持ち合わせており、古くから有る町とは違う形態をしていることに気付くのだ。いわば、生まれも育ちも違う町なのである。

この酒々井町は実に静かで、子供の声もしなければ小鳥の声も少ない。ひっそりと朝を迎え、ひっそりと暮れていく。
一方、私の住む千葉市中央区の家は、朝は小鳥の声がうるさくて目を覚ますこともあるし、小中学校の通学路も近い。私の町では、いまだに昔ながらのよろず屋のような小さい商店も多く、生活感に溢れている。車の騒音は困ったことだが。近所のおばさん達の立ち話もうるさくて、休日も朝寝坊しておられぬ。良い悪いは別にして、双方の町は大違いだ。
定年退職を迎えた妻から、実家の酒々井町と現住所の千葉市中央区の、どちらに住むかと問われて、私は現住所を選んだ。
実家は広くて駐車場が二台分あるのに比べ、私の家は月極駐車場を借りている。常日頃から兎小屋と呼ぶほど狭い家だから。
私が独身時代に買い求めた家だから小さくて狭いけれど、便利さは勝っている。そういう理由で千葉市に住むことにした。


☆80話=★2009年12月・オーディオルームをリフォームして音楽環境を改善する。

79話で、千葉市内の自宅をリフォームをしていると書いたけれど、8日に工事状況を見てきました。
思っていたほど工事は進んでおらず、チョット落胆したけれど、工事の質は良いから、良い結果が出そうだ。

我が家のリフォームは、家の外は一切変更無しで、一階の部屋天井も工事無し。なげしの上も手を付けない。
つまり、一階部分の水回りと、床の張り替え、台所と居間の一部を板壁にするだけのものだ。

それでも、結構な費用はかかるもので、定年生活が始まったばかりの我が家には、負担は大きい。
そして、大事なポイントは、シロフクロウさんのオーディオと音楽の楽しみが増してきそうな予感がするのだ。
【フクロウの巣穴】と呼ぶオーディオルームの壁が厚くなり、二重ガラスサッシになるから、防音効果が出ます。

我が家は一軒家であるし町中だから、車の走行音や酒場の外部騒音も大きくて、
フクロウの巣穴から漏れ出る音楽が、部屋から洩れても、かき消されるのだ。よって、さほどの近所迷惑にはならん。
と、信じているけれど、この類の生活騒音問題は、人の感情面で左右されるから、真相は不明だ。

私に残された時間は、とても少なくなったけれど、これからの音楽環境の改善には、大いに期待をしています。
本当は50才までの元気な頃に、この程度に音楽を聞ける環境が欲しかったのだが、人生は思うに任せない。やりたいことと、やらなくてはならないこと、それらの優先順位というものは、理想と現実の不一致を見るのだ。
シロフクロウさんは、クラシック音楽を愛好していたが、40才を迎えるあたりから、カントリーの女性ボーカルを好んで聞くようになった経緯があり、これが防音部屋を夢見る原因となった。
普通は若い頃にうるさくて激しいポップ系・ロック系にハマり、その後にクラシック偏重になることが多いのにね。
私は逆コースを辿ったということだが、困ったことに、カントリーの女性歌手というのは、女性ジャズボーカルと違い、最適音量が大きいときたもんだ。
年を取ると共に、不幸になっていくというのは最悪である。ま、若い頃に不幸なら良いとは言うまい。
ただ、定年になった妻の旦那フクロウが会社に行かなくなると、大人が二人、常時同じ家の中で暮らすことになる。
こうなると、音楽生活も改善されるばかりでは無い。一難去ってまた一難!というべきか・・・
まったくの話し、理想と現実の不一致は、人生につきまとって離れないものだと、慨嘆している。

http://countrymusic.jp/yomoyama.html

シロフクロウさんのCD批評を読んで聴いてみたいと思った数々

花から花へ

花から花へ

これほどの美貌と容姿と美声を持っていれば、ヨーロッパ・オペラ界に旋風を巻き起こしても、なんら不思議ではない。あるオーディオ評論家は、アンナの声が持つエロティシズムが再生されるかは、オーディオ装置の課題と述べている。
また、彼女のボーカル録音にあたっては、彼女1人の声を収録するのに、三本の近接マイクがセッティングされたという。ここまで周到な録音がされていれば、生のステージとは格段に違う、高品質の声が記録されて、再生用に供されていよう。各自の再生装置では、それぞれに別のアンナが歌っているわけで、ある意味、百人百様の歌が聞こえていることになる。
私の愛器パラゴンは、女性ボーカルに特化していると言って良いスピーカーなので、クラシックのアリアも同様だった。フクロウの巣穴で聞くアンナ・ネトレプコは官能的で、申し分ないと思うし、実際、惚れ惚れと聞いてしまった。fukuroo3のお気に入りの曲は、最後の17曲目、プッチーニのジャンニ・スキッキから「やさしいおとう様」であるが、その他の曲も、アンナの素晴らしいアリアが78分間、じっくりと聴ける。これを推薦せずにおられようか。クラシックアリアを好む人は多くないと思われるので、掲載を迷ったが、どうしても、推薦盤にせざるを得なかった。
なお、アンナのアリア集CDは、最初に発売されたアルバムも一枚所有しているが、これもまた良い。
Thirty Year Retrospective

Thirty Year Retrospective

マーク・オコーナーの「30年を振り返って」というタイトルのライブアルバムです。
2002年7月に、ナッシュビルのバンタービルト大学講堂での三日間に及ぶライブを、二枚のCDに収録したものです。
カントリーのジャンルを越えて、一アーティストとしての可能性を追求した内容となっており、こだわりなく音楽を愛する人向けです。演奏の内容は、有るときはジャズ・ヴァイオリン風であったり、民族音楽風であったりしますが、くつろぎの時間を楽しむにも適します。ステファン・グラッペリから影響を受け、一緒に演奏をしたこともあるそうで、小さな写真もアルバムに載っています。
fukuroo3が思うに、マーク・オコーナーのヴァイオリニストとしての腕前は、クラシック界のヴァイオリニストに劣らない。
カントリーではヴァイオリンをフィドルと呼ぶのだが、彼は後進の指導にも熱心でフィドルキャンプ(夏期短期講習?)でティーンを集めた教室を開いたりもしている。
アルバムのライナーノーツ・エピソードによると、アルバム参加しているメンバーは、マーク主催の教室で出会ったという。現在、ニッケル・クリークのマンドリン奏者クリスと、ギターのブライアンの二人である。
Dolly Partonもそうだが、カントリー界は後進の指導にも熱心だし、歌手同士や演奏者どうしの繋がりが深い音楽界だ。
勿論、ファンとの繋がりもフレンドリーなのだが、こうしたカントリーの良き伝統は継承していただきたいと思う。
こういう体勢があるかぎり、アメリカのカントリー界は不滅であろう。
日本のカントリー界のように、古いカントリーに固執して現状への批判が先立つようでは衰退する。
カントリーは伝統も新しいものも混在するカオス状態が望ましい。その時代の流行や廃りは流行歌として当然なのだから。

http://countrymusic.jp/shin04.html