マッサン その2

ウイスキーと私

ウイスキーと私

昭和43年5月〜6月に日本経済新聞で連載された竹鶴「私の履歴書

 ただ一筋にウイスキーづくりだけに生きてきた。その意味では1行の履歴でかたづく男であり、これまで「私の履歴書」への登場を辞退してきたのも、それ以外に取り柄がなく、私などの出る幕ではないと思っていたからである。しかし、何度も人にすすめられて考えてみると、死んでしまってからでは記録もできなくなる。そこで自慢話にならないよう、事実だけをごく簡単にかいつまんでウイスキー造りの体験をお話しすることにした。

 今英国以外の国でスコッチスタイルのウイスキーができるのは日本だけで、私はそのウイスキー造りを最初に英国に行って学んできた男である。履歴といえばたったこれだけのことであるが、これだけのことでも今までに50年かかっており、まだこれで満足というところまで到達していない。しかし、ともかく、これまでになるのには大勢の方にひとかたなくお世話になってきた。世界的にウイスキー愛好時代を迎えた今日、もし私が日本のウイスキー誕生に幾ばくかの貢献をしたといって下さる方がいるとすれば、むしろそれは私に力を貸して下さり、激励を惜しまれなかったそれらの人々の賜物であり、私はこの「履歴書」を通じてその事実を知っていただきたいと思う。

 私は宿命論者ではないが、人生と運命の関係には二つの型があるのではないかと思う。ひとつは自分の運命に挑戦して生きていくにしても、ほとんど自分の力でそのとびらを切り開いていく型と、もう一つは周囲の人の行為や協力で、自分の進む機会が与えられ、とびらの方からおのずと開いていってくれる型であり、私はどちらかというと後者のほうに属しよう。

 私にとってそのとびらは実にたくさんあった。たとえば2人の兄たちが家業を継ぐのをいやがらなかったら、弟の私が醸造学を修めることはなかったと思う。また摂津酒造の阿部喜兵衛氏の好意がなかったら、どんなに私がウイスキー造りに興味をもっていたにせよスコットランドに留学することはありえなかった。英国ではグラスゴー大学のウィリアム博士やイネー博士、グラント工場長その他の協力がなかったら、ウイスキー造りを覚えられなかったのはもちろん、本場の原酒(モルト)工場に一歩もはいれなかったに違いない。さらに時代を考えても当時日英同盟という政治的背景がなかったら、はたしてスコッチの工場が私を見習い技師として採用してくれたかどうかはなはだ疑問である。

 寿屋(サントリーの前名)の鳥井信治郎社長が洋酒の将来性を確信して、ウイスキー造りに金は出すから君にまかせる、といわれてつくった山崎工場がなかったら、はたして日本は今日のようなウイスキーができる国になっていただろうか。そしてまた私が寿屋から独立して今の会社を創立するときには、英国留学時代からお世話になっていた柳沢伯と隣人の芝川又四郎氏、加賀正太郎氏の絶大な協力があった。さらに私の念願だったカフェ・グレーンを日本で初めてつくるときには山本為三郎氏(出資当時の朝日麦酒=後のアサヒビール=社長)の積極的な援助があった。こうして考えてみると、私がウイスキー造りに精進できたのは皆さんの協力が運命のとびらのように次々と開いていって、おのずと私をこの道一本に導いてくれたといっても過言でないのである。

大正7年(1918年)7月初めに神戸港から東洋汽船で(アメリカ経由で)英国に出発したマッサン。
以下は、マッサンのスコットランド修行篇

 ウィリアム教授は、私をスペイン人と間違えられたが、それは私がワシ鼻のせいだったからだろうか、その後もよくスペイン人かときかれた。当時の英国は日露戦争の勝利、日英同盟などで対日感情はすごくよかったが、日本人の顔を見るのは初めてという人たちばかりであった。特にウィリアム教授には、いろんな面倒や、親身のお世話をいただいた。今でも大切に使っているネットルトンのウイスキーの本は、このころウィリアム博士の推薦で入手し、当時繰り返し読んだ本の一つである。その本を今見ると、「毎日が苦しい、しかし頑張り耐えねばならぬ」など勉強の間に、われとわが身をはげますための走り書きが日本語でしてあるのもなつかしい思い出である。

 留学して初めての冬から、ウイスキーのメッカと呼ばれていたローゼス(ロセス=Rothes)でウイスキー工場の収税官吏の家に下宿し、そこから実習に通うという幸運に恵まれたが、これも全部教授の手配によるものであった。

 スコットランドは、ハイランド地方とローランド地方の二つに分けて呼ばれる場合が多い。ハイランドはスコットランドの北半分の総称であるが、ゴルフで有名なセント・アンドリウスの少し北のダンディーから、スターリング ─ ダムバートンを結ぶ線が、ハイランド・ラインと呼ばれている。ところが、ウイスキーの場合には、ハイランド以南でつくられたものであっても、それがハイランド・モルト(原酒)の製法に従ってつくられたウイスキーなら、ハイランドのモルトウイスキーとしてブレンダーの間では通用する。ハイランドがモルトウイスキーの産地であるのに反し、ローランド地方は、効率のよいグレーン・ウイスキーの産地である。

 ハイランドにはいたる所にモルト工場が点在しているが、なかでもスペイ川の支流にある小さな静かな町ローゼス ─ ダフタウン ─ ノッカンドーの一帯に密集している。私はローゼスではグレンリベット蒸留所でおもに実習をかさね、グレングラントやグレンスペイ、その奥にあるグレンローゼスの蒸留所を見て回った。

 モルトウイスキーは、テレビのコマーシャルや雑誌の広告に出ているのでご承知の方も多いと思うが、銅製の下が丸くて大きく、首が次第に細くなってその頂部でくの字に曲がっている単式蒸留器、すなわちポットスチルを使ってつくるのである。

 そのつくり方をごく簡単にいうと、まず大麦に水分を与える。大麦は水を吸うと、まるまると太り、芽と根を出してみずみずしい精気をあたりいっぱいに発散させる。

 約1週間で発芽をとめ、乾燥塔内でピート(草炭)の煙にいぶされる。ピートの煙は床に刻まれた細いすきまを通り、麦の一粒一粒のシンのそこにまで移り香をしみこませる。麦はピートの移り香を吸い、ウイスキー特有のかおりを早くもここで身につける。

 ピートで十分に乾燥した麦を粉にし、湯水を加えて攪拌すると、ジアスターゼの作用によって澱粉麦芽糖という糖分に変身する。これを濾過し、冷やして酵母を入れると、発酵によって甘い麦芽糖が辛いアルコールになる。これを先の昔ながらの素朴で、しかし、優美な形をした単式蒸留器で繰り返し蒸留すると無色で透明な原酒になる。これをたるにつめて貯蔵すると、その間にコクと色を増し、ウイスキーの原酒になる。

 こういうと、いとも簡単にできあがりそうだが、その一つ一つの工程が重要な意味をもっているのでなかなか大変なのである。それを目で見、肌で感じて実際にウイスキーをつくってみる。それが私の仕事であった。

 習ったこと、見たこと、感じたことはどんな日でもその日のうちにノートに字と絵で書きとめていった。このノートが、私が帰国後、本格的ウイスキーをつくり始めるとき京都の山崎工場で大活躍してくれたのだった。

http://bizacademy.nikkei.co.jp/top-management/resume12/article.aspx?id=MMAC3b003005122014

 スコットランドのローゼス地方の人たちは、親から子へ、子から孫へと受け継いできたウイスキーづくりの伝統を黙々と守りながら、教会を中心として静かな生活をしていた。素朴で親切な人たちばかりであった。

 北の国だけに冬は日が非常に短いかわりに、夏は夜半まで明るい。夜はホテルにあるバーに集まったり、外でグリーンボーリングに興じたりするのがこの地方の人たちのせいぜいの娯楽であった。

 私は毎日この町から汽車に乗ってグレンリベットの蒸留所へ通ったのだが、グレンリベットは、スペイ川に合流するアボン川の支流の谷間にある蒸留所で、ローゼスの町の入り口にあるグレングラント蒸留所のモルトとともに、品質のよさではスコットランドで一、二を競うといわれていた。

 ここをさらに有名にしたのは、創設者のジョージ・スミスである。この地方は、昔はウイスキーの密造者の楽園と呼ばれ、ほとんどの家がおおっぴらで密造をしていたほどのスマグラー(密造者)の中心地であった。1824年、ここに最初の免許を受けて蒸留所を開いたジョージ・スミスはスマグラーたちの迫害をしりぞけながら蒸留所を守った。そして、よいモルトをつくった彼の物語は伝説のように語り継がれていた。

 これら密造者の時代は19世紀の中ごろまで続くが、有名なこの工場も、蒸留機は初留と再留の2基だけで従業員も10名あまりの規模にすぎなかった。密造がスコットランドから姿を消したのは、ハイランドのモルトにカフェ氏が発明したカフェ式蒸留機によってつくり出されたグレーンウイスキーブレンドした「ブレンデッド・ウイスキー」がイギリスのウイスキーの主流になり、重いモルトだけのウイスキーが飲まれなくなってからのことである。

 このグレンリベットの当時の工場長はグラント氏であった。グラント氏は「ウイスキーづくりの勉強はゴルフと同じで、本を読んだだけ、見ただけでは絶対だめだ。からだで覚えるものだ」という主義の持ち主であったが、その環境を私にあたえてくださった。

 ウイスキー工場にはつきもののパゴダの屋根をした建物の中ではピートの煙でむしながら麦を乾燥させる。このとき木製のシャベルで麦をひっくりかえしながら、まんべんなく乾燥させるのがコツの一つであるが、この仕事は熱さと煙の中で続ける生き地獄のような仕事の一つであった。また蒸留を終えた釜の中で掃除するのも、人のいやがる仕事の一つであった。しかし、何とかして本格式のウイスキーづくりの方法を身につけて日本に帰りたいと必死になっていた私にとっては、どんな仕事でも新鮮そのものであったから、これらの仕事も進んで買って出た。この釜の掃除を体験していたおかげで、あとで山崎に初めて工場をつくった際、日本(大阪の渡辺銅工所)で単式蒸留機をつくらせることができたのであった。

 このほかにも、このグラント氏の実地体験主義の勉強で、私は蒸留機をたたいて、その反響音で蒸留のぐあいや進み方がわかるようになるなど、今までの学問の世界とは全く反対な経験とカンを養う訓練を続けることができた。

 グレンリベット蒸留所は、ピートのこげくさいかおりを麦に強めにつけるのが特色の一つになっていた。そのためここの原酒がまだ若いときには、こげくささがやや鼻につく。が、年月とともに成熟し、すばらしい原酒に生まれ変わっていくのである。グレンリベットの年代ものの原酒が、特に高価で売られているのはこのためであった。

 つい先日、スコットランドの知人からなつかしいだろうとグレンリベットのモルトを送ってもらった。今でも実にいいかおりで、伝統の強みがそこからにじみ出ている感じであった。このかおりが実はなかなか出ないのだ。私はこのかおりを日本でどうしてもつくり出さねばならないと思っている。

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 外国で一人で生活した者にとってだれでも覚えがあるのが、ホームシック症状である。私のホームシックは7, 8カ月目にやってきた。

 当時のスコットランドでは、日本人に出会うことなど全くなく、食生活も日本とはがらりと変わり、米には全然ありつけなかった。わずかに故郷のにおいがする食べものといえば、ふかした馬鈴薯ぐらいだった。新聞にも日本の記事は全くないといってよく、西園寺公望氏が第一次世界大戦後のパリ講和条約の日本代表でヨーロッパに来ていることがわかる程度であった。それは日本から遠く隔絶された世界であった。

 夜、寝ているあいだに涙が出ていて、朝気がつくとまくらがグッショリぬれている。そして日本に帰った夢をよく見た。50日余りかかって日本にやっと帰り着く。母が出てきて「イギリスでの勉強は終わったのか」と私に質問する。返事ができないでいると「そんなことでどうします。すぐ引き返しなさい」としかられる。帰るといっても船がない。どうしようと困って目がさめるという筋書きで、この夢の繰り返しであった。

 ローゼスからスペイ川ぞいに海岸に出ると、バレンタイン(スコッチ)の蒸留所があるエルギンという町がある。そのエルギンの町をすぎるとすぐロセマウス(ロジーマス=Lossiemouth)という静かな海岸に出る。私は人一人いないこの海岸にときどき行っては、遠く海のかなたをながめながらたたずんだ。こんなに苦労して勉強して帰っても、結局日本にはウイスキーづくりのよい環境はないのではないかという焦燥と不安、それにできるだけ早くウイスキーづくりの技術を修得しなければならないという責任感が、ホームシックと重なり合って私は声を出して思いきり泣いた。北海の夜の空にはオーロラが美しく冷たく輝いていた。

 ウイスキーの実習の方は周囲の人びとの厚意によって順調に進んだが、ウイスキーのことを知れば知るほど、ウイスキーには風土や気候、水などの条件が絶対であること、いや風土そのものがウイスキーをつくるというこの地方の思想が次第にわかり始めてきていた。ウイスキーが自然の条件のもとでゆっくり時間をかけて成熟を続けてゆく様子は、神秘というほかはない感じであった。同じ時、同じ方法でつくったものでも、たるによっては熟成の度合いは違うし、上段に積んだたると下段に置いたものではでき方に大きな違いが出る。それほどデリケートに自然の影響を受ける生きものであった。

http://bizacademy.nikkei.co.jp/top-management/resume12/article.aspx?id=MMAC3b000016122014

なるほど、これによると、マッサンは Rothes のウイスキー工場の収税官吏の家に下宿して、そこから汽車でグレンリベット蒸留所(Ballindalloch)で学んだんですね。
http://www.spiritofspeyside.com/planning_your_visit/speyside_distilleries/259_the_glenlivet_distillery
私は今までベンネヴィス蒸留所だとばかり思い込んでおりました。
http://bizacademy.nikkei.co.jp/top-management/resume12/
なお、御子息の竹鶴 威「日本のウイスキーマル秘ノート」によると、最後の実習は「カンベルトンのヘーゼルバーン蒸留所」だそうです(1986年2月6日付日本経済新聞朝刊文化面より)。
http://bizacademy.nikkei.co.jp/top-management/resume12/article.aspx?id=MMAC3b001013112014&page=2
それで思い出したのですが、何故かは分からないのですが、御子息、竹鶴 威さんの名前は30年以上も前に目にしたこの文章でよく覚えておりました。
竹鶴 威「日本のウィスキーの創始者 竹鶴政孝の想い出」学士会会報No.755(昭和57年7月)
http://www.gakushikai.or.jp/magazine/archives/archives_755.html
http://www.gakushikai.or.jp/magazine/archives/index.html