日曜日のお楽しみ

日曜日の私のお楽しみは、新聞朝刊各紙の読書欄を近所の喫茶店でモーニングを食べながらつらつら眺めることです。
今朝は朝日新聞の読書欄が一番でした。
まず、鴻巣友季子さんのレビューでデリーロの『墜ちてゆく男』。この本は今朝の日経では豊崎由美さんが取上げていますが、レビューはこちらの方が読ませます。

テロを生き延びたあとの世界で


 また一冊、「文学になにができるか」を問うような小説が翻訳された。本書の題材は、9・11テロ。ここに、ユダヤ系哲学者アドルノの「アウシュビッツを経た今、詩を書くことは野蛮である」という言葉をあえて引こう。既存の世界観が砕け散った9・11後に小説を書くことはどういうことか。以前と変わらぬものが描けるのか。世界中の作家にとって、「あの日」は避けて通れない出来事となった。
 本書は、テロ航空機がツインタワーに激突する場面で始まり、同じ場面で終わる。大災害を生き延びたエリートビジネスマンは、呆然(ぼうぜん)としたまま他人の鞄(かばん)を抱えて別居中の妻のアパートに身を寄せる。街には、スーツ姿でビルから宙吊(づ)りになる「落ちる男」が現れるが、これはタワーから飛び降りる男性を撮った有名な報道写真を模したパフォーマンスアートだ。
 修復されそうで一層深くひび割れていく夫婦仲、鞄の持ち主との情事、子供たちが作りだす謎の男の神話、妻が行う認知症老人らとのセッション。テロ後の生活が、デリーロ独特のつっけんどんとも言える醒(さ)めた筆致で断片的に示されていき、一方、テロの実行犯となる男の来し方が綴(つづ)られる。
 戦争、宗教、歴史などの巨大な問題を扱う本作の手つきは、ややぎごちない。しかし小説は「大きな物語」という戦車が通りすぎた後に残ったものから始まるはずだ。つまり、生き延びた者たちに課せられた命と日常の継続性、そしてその動かしがたさである。認知症の老人らは「あの日」の体験を思い出し語ることで、刻々と進む記憶の崩壊を堰(せ)き止めようとする。彼らにとって9・11は生への手がかりにもなっているのだ。
 「落ちる男」がテロに対して最も早く応答するアートであるなら、本書『墜ちてゆく男』が書かれるには6年の歳月を要した。しかしこの作品に9・11への答えはない。人の救済や癒やしのために書かれてもいない。文学が社会の未来を「先読み」したり過去に「回答」したりしようとする滑稽(こっけい)さ、野蛮さを、本作はただ物語るのみである。


 上岡伸雄訳/Don DeLillo 36年生まれ。現代米国を代表する作家の一人。

http://book.asahi.com/review/TKY200904140094.html

墜ちてゆく男

墜ちてゆく男

次に、これはレビューというよりは紹介文(なにせ自社刊ですから)でしたが橋本治さんの新刊本。
橋本治という考え方 What kind of fool am I

橋本治という考え方 What kind of fool am I

また、「扉」というコラムで佐久間文子さんが雑誌「フリースタイル」を取上げていました。この雑誌のことは初めて知りましたが、何でも一人の編集者(小森収さん)だけの出版社(フリースタイル社)らしく『都筑道夫ポケミス全解説』というようなマニアな本を出している、とのこと。ちょっと気になりました。
都筑道夫 ポケミス全解説

都筑道夫 ポケミス全解説

あと、東浩紀さんが編集している雑誌「思想地図」についても、その存在を初めて知りました。以上が朝日新聞
NHKブックス別巻 思想地図 vol.1 特集・日本

NHKブックス別巻 思想地図 vol.1 特集・日本

次は読売新聞の本 よみうり堂。
「空想書店」というコラムで宮田珠己さんという方が「味わい深い旅の本」を紹介されていますが、その中で私が気になったのは次の4冊。
第一阿房列車 (新潮文庫)

第一阿房列車 (新潮文庫)

ボートの三人男 (中公文庫)

ボートの三人男 (中公文庫)

旅する哲学 ―大人のための旅行術

旅する哲学 ―大人のための旅行術

イギリスだより―カレル・チャペック旅行記コレクション (ちくま文庫)

イギリスだより―カレル・チャペック旅行記コレクション (ちくま文庫)

最後は毎日新聞の読書欄。
池澤夏樹さんのレビューでサリンジャーの『ナイン・ストーリーズ』。柴田元幸さんの訳業を高く評価されています。
ナイン・ストーリーズ

ナイン・ストーリーズ

それにしても、今朝の朝日のコラム「天声人語」の文章はいいなあ。

http://shinshu.fm/MHz/82.40/2007/03/
神代桜の描写のあたり(「周囲が12メートルもある幹は黒い巨岩を思わせる。瘤だらけで洞をなし、節くれだっている。その貫禄は、残雪の南アルプスに向かって一歩も引かない。異形の塊から清楚な花が乱れ咲く様は、どこか妖しげな空気さえ漂わせていた。」)など、英訳するとしたらむずかしいだろうけれど、さてどう訳されるのかなあと思って、後学のためにHPを参照してみたところ、やはりむずかしかったのか(翌日が新聞休刊日だからでしょう)13日付けのものは掲載がありませんでした。

 染め上げると言うにはあまりに淡い色を連ねて、桜前線の北上はきょうはどのあたりか。陽気に誘われて、せんだって山梨県の神代(じんだい)桜を訪ねた。日本三大桜と呼ばれる一本だ。樹齢2千年ともいうエドヒガンの古木は、ちょうど満開の枝を空に広げていた。
 周囲が12メートルもある幹は黒い巨岩を思わせる。瘤(こぶ)だらけで洞(うろ)をなし、節くれだっている。その貫禄(かんろく)は、残雪の南アルプスに向かって一歩も引かない。異形の塊から清楚(せいそ)な花が乱れ咲く様は、どこか妖(あや)しげな空気さえ漂わせていた。
 桜の花は万人に愛(め)でられるが、幹もまた捨てがたい。「桜の画家」で知られる中島千波さんに、「花を描くというより幹を描く」とうかがったことがある。桜の表情は、花よりも幹に真骨頂があるのだという。
 やはり三大桜の一つに樹齢1500年という岐阜の淡墨(うすずみ)桜がある。中島さんは初めて見て幹に圧倒された。「古代人がそこにいるような畏敬(いけい)の念を感じた」そうだ。以来、歳月を重ねた一本桜の肖像画を描く気構えで桜と向き合ってきた。
 〈さくら花幾春かけて老いゆかん身に水流の音ひびくなり〉。小紙歌壇の選者馬場あき子さんの一首を思い出す。水流とは老樹のひそやかな鼓動だろうか。それとも、遠い過去から吸い上げる悠久の時の流れなのだろうか。いずれ、聞こうと心する耳にだけ響く音なのに違いない。
 群生の桜は「見に行く」だが、有名でも無名でも一本桜には「会いに行く」と言うのがふさわしい。人、桜に会う。仲を取り持って、二度とはめぐらぬ今年の春がたけていく。

http://www.asahi.com/paper/column.html

http://www.asahi.com/english/Herald-asahi/voxlist.html