渡辺慧 生誕100年

本日は「原子党宣言」の渡辺慧生誕100年の記念日です。今では人の口の端に登ることが少ないようですが「ルネサンス人の最後の一人」と言われるような大した方です。
Wikipedia より。

略歴
* 1910年5月26日、東京に生まれる。学習院中等科東京高等学校を経て、1933年、東京帝国大学理学部物理学科を卒業する。在学中に理化学研究所寺田寅彦の指導を受ける。
* 1933年、フランス政府留学生として渡仏、パリでド・ブロイに師事し、熱力学の第二法則と波動力学の研究を始める。
* 1937年、ライプツィヒに移り、ハイゼンベルク原子核理論を師事する。同年、後にドイツ文学者でハワイ大学教授となるドロテア・ダウアーと結婚する。
* 1939年、第二次世界大戦の勃発とともにドイツを離れ、コペンハーゲンのボーアの許にしばらく滞在した後、同年12月に家族とともに帰国する。
* 以降、理化学研究所員、東京帝国大学第二工学部助教授、立教大学理学部教授を歴任し、第二次世界大戦後の1950年に渡米。
* 1956年、IBMワトソン研究所員となり、量子力学を基礎とする独自の情報理論の構築とその応用研究を行う。以降、イェール大学教授、ハワイ大学教授等を歴任するほか、国際時間学会会長、国際科学哲学アカデミー副会長等をつとめる。
* 1993年10月15日、東京にて病没する。
 なお、父・渡辺千冬は浜口内閣、第二次若槻内閣の司法大臣、兄・渡辺武は大蔵省財務官、アジア開発銀行総裁、子・渡辺元はカリフォルニア大学サンタバーバラ校哲学科教授である。


業績
 量子力学の勃興期に渡欧した渡辺は、ド・ブロイ、ハイゼンベルク、ボーア等と直接交わり、処女作『Le deuxième théorème de la thermodynamique et la mécanique ondulatoire(熱力学の第二法則と波動力学)』(1935年)において、熱力学と量子力学の関係を解明し、熱力学におけるエントロピー概念の一般的な定式化を行う。熱力学的な物理現象の不可逆性に対する渡辺の強い関心は、ベルグゾンの哲学等の影響もあって、哲学的視野を含んだ時間の本質に対する探究へと進み、時間論の初期の名著とされる『時間』(1948年)、『時間の歴史 : 物理学を貫くもの』(1973年)、『時間と人間』(1979年)等の一連の著作に結実する。1980年の『生命と自由』では、こうした物理学的・哲学的思索を生命現象にまで推し進め、生命とは自由の追求であると主張する。
 一方、エントロピー概念の情報理論への応用可能性に早くから着目した渡辺は、1969年の『Knowing and guessing(知識と推測)』において、人間の知的活動の基本要素である「知ること」と「推測すること」を数理的・定量的手段を用いて分析・再構成し、「認識学(epistemometrics)」を提唱する。また、1985年の『Pattern recognition(パターン認識)』では、知覚を中心とする人間の認識過程を機械と比較し、人間のパターン認識エントロピー最小化原理に基づく情報の圧縮であることを明らかにする。2つの与件を区別する有限個の述語が与えられたとき、その2つの与件に共通する述語の数は与件の選び方によらず一定であることから、すべての事物は同等の類似性を有することを証明した「みにくいアヒルの子の定理(Theorem of the ugly duckling)」は、述語の重要性を決定するのは人間の価値体系であることを示した点で重要である。
 こうした理論的活動にとどまらず、実践的な著作も少なからず発表しており、戦時中においてもリベラリズムを貫き、『科学日本』、『帝大新聞』、『科学人』等の各誌で、戦争に協力した科学者を批判する。また、戦後は『思想の科学』の創立同人に加わるとともに、『中央公論』、『文藝春秋』、『婦人公論』等の各誌で、社会問題・女性問題についても積極的な発言を行った。敗戦直後において、マルクス主義から独立した社会主義論を構想した初期論文集が晩年に出版されている。


人物
 語学に堪能で、積極的に海外に活躍の場を見出した渡辺は、「頭脳流出組の初期の一人」とされる一方、「学は一つなり」をモットーとし、哲学、物理学、心理学、情報理論認知科学、コンピュータ科学等、広汎な領域でコスモロジカルな思索を展開したことから、「ルネサンス人の最後の一人」とも称される。その知的営為の独創的な先駆性は、今日なお、村上陽一郎等によって高く評価されている。また、家庭生活においては、戦中戦後の困難な時代に、慣れない土地で大変な苦労を強いられながらも、渡辺を支え続けた妻ドロテアを終生愛し、とても子煩悩であったことが知られている。

「歴史が眠る多磨霊園渡辺慧の埋葬場所:14区 1種 3側

 東京出身。父は政治家の渡邊千冬(14-1-1-10)。その次男として生まれる。兄は大蔵官僚の渡邊武。祖父は伯爵の渡邊千秋。大叔父(千冬の養父)は渡邊国武(14-1-1-10)。従兄の渡邊昭はボーイスカウト日本連盟総長。従甥に今上天皇侍従長を務めた渡邉允がいる。
 学習院中等科東京高等学校を経て、1933(S8)東京帝国大学理学部物理学科卒業。理化学研究所寺田寅彦の門下。 '33渡仏し、パリでド・ブロイに師事。'37ライプツィヒに移り、ハイゼンベルクに師事。主に、熱力学の第二法則、波動力学原子核理論の研究を行った。 '39戦争悪化のため、帰国。以降、理化学研究所員、東京帝国大学第二工学部助教授、立教大学理学部教授を歴任。五次元の場の理論を唱え、CPT定理と量子電磁力学の可逆性を証明する。'50渡米後、'56IBMワトソン研究所員などを経て、ハワイ大学教授を勤める。同大学名誉教授。
 専門外の分野でも業績を残したことから“ルネサンス人の最後の一人”と呼ばれる。これは「学は一つなり」をモットーとし、哲学、物理学、心理学、情報理論認知科学、コンピュータ科学等の広汎な領域でコスモロジカルな思索を展開したからである。特に戦後より、様々な学問から「時」についての研究を行った。多くの哲学者や思想家とも交流し、'46渡辺慧鶴見俊輔鶴見和子丸山真男(18-1-31)、都留重人武谷三男、武田清子の7人の同人により雑誌『思想の科学』を出版した。国際時間学会会長、国際科学哲学アカデミー副会長。
 エピソードとしては、旧制高校時代、将来何になりたいかと先生に聞かれて「人間になりたい」と答えた。戦争中は自由主義者の姿勢を崩さず「科学者は人間のためにある」の信念に従い、戦争に協力した科学者を各誌で批判した。その時の言葉として「良き政治家は、国家の二十年の将来を計るだろう。良き社会科学者は社会の百年後の将来を予見するであろう。しかしあらゆる自然科学者は千年後の人類を創造しつつあるのである。」という名言を残している。
 主な著書に『原子核と超微構造』『時間』『原子核理論の概觀』『物理学の小道にて』『場の古典力學』『未來をゆびさすもの』『時間の歴史 : 物理学を貫くもの』『時』『認識とパタン』『時間と人間』(妻のドロテアと共著) 『生命と自由』『知るということ : 認識学序説』『フランスの社会主義の進化 : 渡辺慧初期論文集』など多数ある。東京にて病没。享年83歳。
 妻は'37婚姻したドイツ人のドロテア・ダウアー。婚姻後は渡邊ドロテアとしてドイツ文学者・ハワイ大学教授として活躍。子はカリフォルニア大学サンタバーバラ校哲学科名誉教授である渡邊元(1938-)。

http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/W/watanabe_sa.html