女と男のいる舗道

この映画の日本語タイトルが何となく好きです(原題 Vivre sa vie )。
今は昔の1978年6月、大学に入学したての学園祭。どこかの教室で初めて観たゴダールの映画です。

同じ頃に読んで妙に記憶に残っている飯島正さんの『映画のなかの文学 文学のなかの映画』から、以下、関係箇所を引用させていただきます。

女と男のいる舗道』では、実物の哲学者ブリース・パランが登場して、女主人公の売春婦ナナを相手に一席ぶつ。その一節をここに紹介しようとおもう。場面はカフェの内部、ナナが退屈して、となりのテイブルの哲学者を見ている。


ナナ
   見ちゃいや?
哲学者 (オフ)
   いや。
ナナ
   なにしてんの?
哲学者 (オフ)
   読んでる。
ナナ
   おかしいな。急に、なんていっていいかわからない。よくあるわ。いうことわかってるんだけど、いうまえに考えると……プイ! いえなくなっちまうんだ。
哲学者 (オフ)
   そうだとも。ねえ、君、『三銃士』読んだことある?
ナナ   
   ない。でも映画は見たよ。なぜ?
哲学者 
   なぜって……そら、ポルトスってのがいたろう。待てよ、ありゃ『三銃士』じゃない、『二〇年後』だ。ポルトスは腕っ節のつよい大男だが…… ちょっと頭がよわい。自分の生活のことなんか考えない。いいかね?ところがあるとき、地下道を爆破するんで、爆弾をもって地下にはいらなけりゃならん。中にはいって爆弾を置く。導火線に火をつける。もちろん逃げだす。かけだしながら、急に考える……なにを考えるか?どうして一方の足のまえにもう一方の足をだすことができるんだろうってね。君もきっとそんなこと、あるだろう?そこで彼は足をとめる……走るのを、前進するのをやめる。そうしたら、もうだめなんだ。まえにすすめないんだ……爆発だ、なにもかも。彼は地下にうまる。彼は肩でそれをささえる。つよいんだからな……。だがとうとう、一日たったか二日たったかわからないが、つぶされて死んじまった。(オフになって)要するにだ、生まれてはじめて考えたら、死んだのだよ。
ナナ
   どうしてそんな話するの?
哲学者 (オフ)
   まあ……そうだな……話すための話さ。
ナナ
   でもなぜ、いつも話さなけりゃならないの?あたしはね、ときどきはだまっていなきゃいけないとおもうよ。だまって生きるのさ。しゃべりゃしゃべるだけ、ことばなんか意味ないさ。
哲学者 (オフ)
   あるいはね。だがそんなことできるかね?
ナナ
   (肩をそびやかして)知んないよ、あたし。                      (下略)


 こうした調子で延々と売春婦と哲学者のこんにゃく問答がつづく。これを本筋に関係があるとみてもいいし、みなくてもいい。ただこれが、現代社会を売春であるときめつけるゴダールの作品であることは、心にとめておいたほうがいい。ナナは肉体を売りながら自分の魂は立派にまもる女であった。

ポルトスが「二〇年後」で死ぬ?何かの間違いでしょう。それにしても「現代社会を売春であるときめつけるゴダール」。凄いコピーです。
確かにゴダールの映画には売春が多く描かれているようですが(私の好きなマリナ・ヴラディ様も演じているようですが)、一体、ゴダールが売春をどう考えているのか(ひょっとして、女は皆、売春婦だ、とか)蓮實重彦さんのゴダール本でも調べて、ちょっと確認したくなりました。

(後記)
ブリス・パランの著書『ことばの小形而上学』の訳者あとがきで、篠沢秀夫さんがこの映画について触れてみえました。
以下、引用します。

パランの名が一般大衆に拡まったことは一度もなかったし、いわゆる読者大衆を引きつけたこともなかった。ただ、一度パランの顔がかなり多くの公衆の目に入ったことがある。ゴダールの映画「男と女のいる舗道」に突如、地のままで出演、娼婦役のアンナ・カリーナとキャフェで偶然隣り合わせとなり、愛や人生について、そこはかとなく語り合った。シナリオなしで語っているのではないかと思われる自然な口調だった。「ちょっと」とか「ほぼ」とか「ほとんど」とか、断定を嫌う話し口は、本書にも見られる。肉のついた長い、にこやかな、柔和な老人であった。話すリズムで考え、考えるリズムで話す。哲学の概念が日常の表現の中にこなれて入りこむ。映画の中での奇妙に抽象的で、それでいて平易な語り口は、本書にも見られる。

なるほど哲学者の存在など 一般に知られることは、TVタレントでもないかぎり、通常は無いでしょう。
それにしても パラン教授は何故「突如、地のままで」映画に出演することになったのか、ゴダールに経緯を聞いてみたいものです。