「三島由紀夫と司馬遼太郎が激突した日 ― 薄よごれた模倣を恐れる」

昨日で三島由紀夫が割腹自殺というショッキングな死に方を選んでから満40年になりました。三島といえば高校3年生の当時、文学好きの友人から突然「おい、三島全集は何巻まであったっけ」と尋ねられて驚いたことを覚えています(他の誰かと間違えて、だったのでしょう。何と答えたのかは忘れました)。
40年前の本日、毎日新聞の一面に載った司馬遼太郎の「異常な三島事件に接して ― 文学論的なその死」を読み直したいと思っているのですが、最近、この司馬の文章について、実は司馬の寄せた原稿から一部字句を削っていた、という驚くべき事実を知りました。
11月21日付け毎日新聞「反射鏡」の中で、冠木論説委員長が「三島由紀夫司馬遼太郎が激突した日」という物々しい表題で以下のように書いていたのですが、本当に驚きました。
驚くとともに大阪版の「薄よごれた模倣を恐れる」という完全版を是非読みたいと思うのは私だけではないでしょう。司馬ファンならずともそうではないでしょうか。
昔はこういうことは珍しくなかったのかもしれませんが、このように紙上で公にされた以上、毎日新聞でもってHPかどこかに載せるべきだと思います。

 私はこの文章のことで驚いたことがあった。事件当日に紙面編集のデスクをした大先輩が「スペースが足りず30行ほど削ってしまった。司馬さん、ごめんなさい」という回顧をOB会の冊子に寄せたのだ。司馬の寄稿を削るなどということがありうるのだろうか。先日、その時の様子を教えてもらった。
 司馬の原稿は大阪本社の学芸記者が依頼、大阪はそのまま組みこんだ。東京には漢字テレタイプと電話の併用で大急ぎで送稿された。首都圏版の深夜0時ごろの降版(校了)時間ぎりぎりにスペースを空けて待っていたが、原稿が長く入らなくなってしまった。デスク自ら乗り出し「後半部分で本流からはずれた支流の部分を削った」という。当時は鉛の活字という物体を原稿の冒頭から組んでいくという作業。編集幹部が事後に司馬の了解をとったようだ。
 では大阪版ではどうだったか。紙面を見ると先のOBが削ったと思われる分量、15字詰めで30行程度長い文章が載っていた。見出しは「薄よごれた模倣を恐れる」。東京と随分違う。
 縮刷版に残り、常に参照されたのは東京本社版の短い方である。それだけに原文に近いと思われる大阪版は貴重だ。
 大阪だけに載ったのは長短合わせて8カ所。例えば司馬が「密室の政治論」と呼ぶその密室に「楯の会」という他者を引き入れたことの意味を説明する部分がある。東京では大筋に響かない補足説明という判断で削除したのだろう。寸秒を争う新聞制作としては妥当だったと思う。

http://mainichi.jp/select/opinion/hansya/news/20101121ddm004070059000c.html