書評でわかる意外な関係

憲法の境界

憲法の境界

憲法の境界 Boundaries of Constitutional Law


はしがき
第Ⅰ部 時間
 第1章 われら日本国民は、国会における代表者を通じて行動し、この憲法を確定する
第Ⅱ部 空間
 第2章 国境はなぜ、そして、いかに引かれるべきか?
 第3章 人道的介入は道徳的義務か? ―『憲法と平和を問いなおす』を問いなおす
第Ⅲ部 人間
 第4章 国籍法違憲判決の思考様式
 第5章 学問の自由と責務 ― レオ・シュトラウスの「書く技法」に関する覚書
 第6章 法律学から見たリスク
 第7章 私が決める
第Ⅳ部 裁判
 第8章 民事訴訟手続の基本原則と憲法(長谷部由起子)
 第9章 憲法から見た民事訴訟
 第10章 取材源秘匿と公正な裁判 ― 憲法の視点から

本書について今日の朝日新聞読書欄に苅部直さんの書評が載りました。
内容は以下のとおりですが、さすがの苅部さんも長谷部さんの読書の幅広さには感心されたようです。実際に中身を見ると、シュトラウスネーゲルに止まらず、ジョン・オースティンやヴィトゲンシュタインから、バーナード・ウィリアムズ、マイケル・ウォルツァー、ジョゼフ・ラズといった現代英米哲学の第一人者の名前がずらり。イアン・マキューアンなど文学的趣味も興味深いですが、長谷部さんの哲学嗜好は明らかです。
私は慣れたせいか、何やら不穏、だとか、憲法に関する本としてどうなのか、というほどには思いませんが、これが長谷部さんのスタイル。レオ・シュトラウスを引き合いに長谷部さんには愚直な韜晦趣味などない、などと苅部さんには若干嫌味に感じられたのかも知れません。
もっとも苅部さんが長谷部さんの著書をこれまで余り読んでおられなかったようなのには少々意外な感じもしました。

道徳の思考に訴える“窓口”として


 憲法学者による論文集で、版元も新興の学術出版社であるが、本文と注でとりあげている人名に、まずびっくりする。カール・シュミット樋口陽一など、高名な法学者は当たり前としても、政治哲学者のレオ・シュトラウス、道徳哲学者のトーマス・ネーゲルといった名前を目にすると、何やら不穏に思えてくる。果ては、ミラン・クンデラ井伏鱒二薬師丸ひろ子(!)。憲法に関する本としてどうなのか。

 しかしきちんと通読すれば、これが真っ当なねらいに基づいた、心憎い議論戦略であることがわかるだろう。著者によれば、通常の実定法の適用によっては解決が得られないとき、法の外にある道徳に関する思考に訴えかける「窓口」に、憲法がなっている。

 公権力による規制が及ぶ範囲と、個人の選択に任される活動領域との分割線を、どこに引くか。その線引きはいかなる論理によって正当化されるのか。そもそも、前提となっている選択する人間とは、いったいいかなる存在か。憲法について、人生全般にわたる哲学上の問いにまで遡(さかのぼ)りながら考察するところに、この本の特色がある。

 とりあげられる話題は、文言上、日本国憲法を確定したとされる「われら」「日本国民」の決定権や、国境の存在理由や、他の国家に対する人道的介入など、世間では熱い議論をまきおこすものが多い。だが著者は、議論の根拠を一つ一つ掘り下げ、錯綜(さくそう)した問題の網を解きほぐしながら、どう考えるのが適切かを示してゆく。

 先に挙げたレオ・シュトラウスは、世間の常識をおびやかす知見を行間にしのびこませ、真剣な読者の思考をひそかに触発するのが、哲学者の著述の方法だと説いた。そのことも、この本でふれられているが、そうした愚直な韜晦(とうかい)趣味は、著者の叙述にはない。

 意表をつく展開にとまどいつつ、文章をたどってゆくうちに、いつのまにか、憲法や国家や人間について、これまでと違う考え方をしている。そういう自分に読者は気づくだろう。

http://book.asahi.com/review/TKY200910200216.html

苅部さんの書評のタイトルになっている「道徳の思考に訴える窓口として」というのは、本書のはしがきで長谷部さんが述べている箇所を引いておられるのですが(「法の支配の要請に従うまっとうな実定法の適用では適切な解決が得られないとき、法外の道徳的思考に訴えかける窓口になるのが憲法である」)、なるほど確かに気になる台詞です。憲法をこのように位置づけている憲法学者が他にみえるでしょうか。実にユニークです。
昔ある民法学者が「憲法学者は楽でいい。問題を違憲だといって済ますことができるから」などと批判していたと記憶していますが、なかなかどうして、そんなに甘くない、と思います。