二元代表制について

名古屋市の河村市長が「議会の解散権は市民にある」と主導して市議会解散を求める署名が何と46万筆以上集まり(市の有権者は180万人なのでほぼ4人に1人が署名!)この4日に市の各区選挙管理委員会に提出されました。
75人もいるという市会議員たちはこの間一体何をしていたのでしょう。いよいよ議会の解散が現実味を帯びてきました。

http://www.chunichi.co.jp/article/feature/vsshigikai/list/201010/CK2010100402100008.html
市長のいう論理(市長と議会が決定的に対立した場合、議会は市長を不信任すべき。なのに対抗馬がおらず解散も怖いので議会はそうせず反対ばかり。市長に議会解散権がない現状では、市民にその「解散権」を行使してもらうしかない)は、最終的に市民の意見を求めるという意味で、乱暴ではありますが私は筋が通っていると思っています。
しかしまぁよく集めたものですね。「どうせ集まらせん、と市民をなめとる!」と叫んでいた河村市長。これでますます彼の政治力は強大になりました。
私は河村たかし氏をTVによく出演したがるタレント国会議員くらいに考えていましたが、氏が名古屋市長に当選した時には、彼の周囲に意外とまともな応援団、アドヴァイザーがいるのでかなり期待したものです。しかし、その実情は随分違うようですね。まともな応援団の中でも特に期待していたのが、後房雄名古屋大学教授(大阪府橋下知事の金井利之教授も同様です)。ここ最近、教授のブログを読ませていただき、ふぅーん、そうなんだ、と感心することしきり。河村市長に対する評価では、以下のように感情的な筆致になっている箇所も随分ありますが、さすがに近くにいた人物のブログだけあって、市長の実像が垣間見られます。

[2010年09月21日(火)]
 河村さんが、民主主義や自治体経営などには大した関心はなく、議会リコールで注目を集めたいだけだという本心が透けて見えます。メディアはまだ、いくらなんでもそれほどひどくはないだろうと思っているようですが、こうしたいいかげんさを示す事実が積み重なるにつれて変っていくでしょう。世論を一時的に欺くことはできても、長く欺くことはできません。
[2010年09月17日(金)]
 河村市長本人を代表に、周りに集まっている人たちが市民運動などという文化圏とは程遠い人たちだというのは面識のある人には明らかです。私が市長による市民運動の私物化だというのはこういうことです。
[2010年09月12日(日)]
 彼(有田芳生)の田中康夫体験と私の河村たかし体験がそっくり同じで、おたがい、付き合ってみないと人は分からないもんだという感想でした。
[2010年09月07日(火)]
 ここには、河村氏のいつものいいかげんさと組織やマネジメントのセンスや能力の欠如が集約的に示されています。こんな人物に、NPOもボランティアも寄付も語る資格はありません。
[2010年04月02日(金)]
 名古屋市の騒動を振り返ってみて、不覚なことに、大きな「子ども」に振り回されてしまっていたことに気がつきました。こちらはもう少し大人になったつもりでいたのに、いつの間にか・・・、という感じです(こちらでカバーできるはずという目算の狂いもありましたが)。
[2010年05月09日(日)]
 私と藤岡さんに関する限り、こちらは支援し続けていたのに河村側から切ってきた、というのが真相です(しかるべき時期に具体的に明らかにするかもしれません)。自分が完全にコントロールできない存在は許容できないという彼の器の小ささや猜疑心の強さが主な原因でしょう。

http://blog.canpan.info/jacevo-board/

後教授の持論は、地方自治体における政治制度である二元代表制には根本的な矛盾があるというもの。「ローカル・マニフェストと二元代表制 ― 自治体再生の胎動と制度の矛盾」という論文が「名古屋大学法政論集」の第217号(2007)に載っているようですが、ブログにも以下のように書かれており、名古屋市の現状を見るにつけ、教授の議論への同調者がこれからますます増えるのでは、と思います。

地方議会改革 [2009年12月14日(月)]


 日経グローカル編『地方議会改革マニフェスト』(日本経済新聞社、2009年)を読みました。地方議会改革の最近の動向と理論がまとめられ、話題の「栗山町議会基本条例」と「三重県議会基本条例」も資料で収録されています。
 竹下譲さん、江藤俊昭さん、大森彌さんなど、このテーマについての主要な研究者が執筆しています。ほかには、廣瀬克哉さん(法政大学教授)でしょう。
 私もよく知っている研究者たちですが、なぜか二元代表制の矛盾を直視しない点にいつも違和感を感じさせられます。
 地方分権が進むなか、首長主導の改革に立ち遅れている議会こそこれからの主役だという議論です。モデルは、2006年の栗山町や三重県の議会基本条例のようです。
 今日の議会改革の方向を端的に表現すれば次のようになると指摘されています。
 住民に開かれ住民参加を促進し(閉鎖的ではなく!)、首長とも切磋琢磨し(与党野党関係は存在せず、議会として監視と政策立案の役割を発揮しつつ、議員の質問に対する執行機関からの反問権も認める!)、議会の存在意義である議員同士の討議と議決(質問のいいっぱなしではなく!)を重視する議会である。(江藤氏、133ページ)
 私自身は、二つの点でこうした議会像にリアリティが感じられません。
 第一に、議員に予算提案権もない現在の仕組みにおいて、議員さんたちにこのような方向で改革を行うインセンティブが生まれるとは思えないということです。職業議員としての保身を優先する議員が多数を占めるなかで、こうした改革をめざす議員が多数派を占めるのはいつのことになるのでしょうか。市民からの批判をかわすための形だけの改革になる可能性が高いと思います。
 私は、議院内閣制、シティマネジャー制などの議会一元制にしてはじめて、議会の多数派が政権運営の責任感をもつようになり、上記のような改革も進むと思います。
 第二に、党議拘束をなくし、与野党意識を克服すべきだという主張が非現実的だということです。大森氏は、選挙においては政党が存在することは当然だとしながら、「政党・会派の立場が議会審議まで露骨に出てくることが問題」、「選挙での対立を議会にまで持ち込まず」、などと述べていますが、単なるお説教以上の説得力が感じられません。選挙が終わったら消滅する政党とは何なのでしょうか。
 私の考える限り、この本で主張されているような議会改革が進めば進むほど、首長と議会多数派のズレが深刻化するとしか思えません。
 だとすれば、二元代表制の現状においては、首長の政権運営責任を前提にしたうえで、それを大幅に侵害しない範囲での議会の役割の明確化と活性化を図るべきだということになります。
 もう一つの政治的な解決策は、首長と議会多数派を一致させるということです。実はこれは従来の相乗り体制がやってきたことです。相乗りは首長と議会多数派がズレないようにするための便法だったのです。
 だとすれば、改革派の首長が、議会多数派の確保のための政治活動をすることも当然の選択肢だと思います。河村市長が議会解散によって議会多数派を確保しようとするのを独裁だとかファッショだとか批判する意見があるようですが、それなら、これまでの名古屋市の相乗り体制もまた独裁だったということになります。
 どちらも、二元代表制を機能させるための合法的で現実的な方法なのではないでしょうか。
 私自身は、議会一元制に転換した方が生産的だとは思いますが。

http://blog.canpan.info/jacevo-board/archive/63

今月2日には横浜でこのようなシンポジウムも開かれたようです。

地方議院内閣制を考えるシンポジウム ― 議会と首長の関係を住民が選択する時代
議会が生きる地方政治へ


地域戦略会議、ならびに地方行財政検討会議においても、地方政府形態選択制の議論が始まりました。首長や首長経験者だけでなく、地方議員自らが、議会が地方政府の中でどの様にあるべきか提示していくとの趣旨でシンポジウムを開催致します。予算編成権や行政執行権等を議会が持たない現行制度の限界を根本から変え、議会多数派によって政策リーダーを任命し内閣をつくる議院内閣制等の選択を可能とする地方制度を全国の皆様と議論したいと思います。

http://ameblo.jp/lccs

上記のように、後教授は学者として「二元代表制の矛盾」を強調され制度の見直し、少なくとも選択制の採用を主張されていますが、今回の菅第二次内閣で総務相に就任した「舌鋒鋭い」片山義博氏は、御自身の鳥取県知事の経験に裏打ちされた「二元代表制の洗練」が持論のようです。
話題の河村名古屋市長とも今月13日に総務省で面談されたようですが、片山大臣は大臣就任前から河村市長にはかなり好意的でしたので、会談も議会リコール問題で大いに盛り上がったことでしょう。
片山さんが大臣就任前に書かれた「名古屋市の「ねじれ」をどう解決するか」(「世界」2010.10)では「二元代表制の洗練」の持論を述べ、「ねじれのまっとうな解決手法」を伝授されているのですが、名古屋市での今回の騒動をどう評価するかについては、もっと以前に書かれた文章で、以下のようにうまく整理をされていました。減税について、こういう論法で河村市長は市議会を説得すればよいではないか、と読者としても思わず膝をたたいてしまうような、実に「まっとうな」議論を展開されていたのです。
自治日報」の巻頭言ですが、それは以下のようなものです。

 市の財政が厳しいのに減税するのは無責任だとする批判がある。もし市長が減税を行うだけであれば、歳入に穴があき財政はバランスを失するから無責任の謗りを免れまい。しかし、市長はこの減税額に見合う歳出を削減するとしており、それが実行されるのであれば、市の財政状態を今まで以上に悪化させることは決してない。
 ならば、歳出を減らすことで生み出される財源を、減税ではなく地方債の抑制に充てたらどうかという意見もあるだろう。たしかに当面それが最も賢明な選択肢だと思うが、そうしないからと言って非難される筋合いのものではない。歳出カットと減税の組み合わせは、歳出カットと地方債抑制の組み合わせには劣るかもしれないが、歳出カットも減税もしないこれまでのやり方に比べると勝るとも劣らない選択だからである。
 実は、歳出カットと結びついた減税の効用は(中略)、もともとムダな事業を削ることはもちろんであるが、仮に多少住民が痛痒を感じるような予算カットであっても、もしそれに見合う減税が伴うのであれば、住民にとっては確実にメリットが生じることとなる。そのことが、これまでとかく関心の薄かった行政改革を多くの住民が後押しするきっかけになるはずである。

続けて、片山大臣は、焦眉の「地方議会」の問題についてもこう指摘しているのです。これは、その後の名古屋市での議会リコール問題を考えれば、まさに慧眼だったといえるでしょう。

 住民の意識の変化は、議員たちの「生活習慣」を変えずにはおかないだろう。これまで予算案を無傷で通してきた議員たちは、これからは住民の関心の高まりを背景にして歳出予算を厳しくチェックしなければならなくなる。そこには必ずやムダがあったり、今やらなくてもいい事業が含まれていたりするから、議員はそれらを着実に摘出し、それによって生まれた財源を減税に振り向ければよい。
 こうしたことを住民は歓迎し、これに熱心な議員を高く評価するに違いない。このたびの名古屋市の減税は、実は地方自治法改正による議会制度改革を待たずして地方議会の変容を促す要素を含んでいるのである。

地方議会の議員たちの姿やその活動が住民によく見えないのは、条例案などを「無傷で」通しているだけで、要するに「住民のためになることを何もしていない」からに他ならないのです。
一方、首長についても、大山礼子教授が「アメリカの大統領制は、そういう歴史と伝統が200年あるアメリカでしか機能しない制度」であって日本の首相公選制には反対だと述べていたように、自治体の首長公選制にも確かに問題がありそうですが、憲法改正を要するこの首長の直接公選の見直しは、戦後このかた定着していてなかなか困難でしょう。
自治体の議会も憲法で認められた機関ですが、後教授が言われるとおり、こちらの改革は不可避です。今、現在名古屋市のように問題になっているところが急進的に改革を進めれば、特段問題になっていない他の自治体でも、議員の意識が多少は変わってくるでしょう(尤も後教授の見立てでは名古屋市の議会改革は、過半数を河村市長派が握らない限り見通しはかなり暗いようです)。
私も、片山大臣がおっしゃるとおり現行制度である二元代表制がうまく運営していくようなオプション(住民投票制度など)を整備するのが現実的だと考えます。
後教授がいわれるような議院内閣制は、ある程度の規模以上の(首長公選では権力が強大化してしまうような規模以上の)、新しい制度による団体(いずれ導入されるであろう「道州制」の道州。結論として州は自治体ではないことになります)でしか実現できないし、すべきでもないのではないでしょうか。