渡辺京二の作品を読む

分権改革のいまをどうみるか―第23回自治総研セミナーの記録 (自治総研ブックレット)

分権改革のいまをどうみるか―第23回自治総研セミナーの記録 (自治総研ブックレット)

http://d.hatena.ne.jp/yasu-san/20081212
2008年9月といえば政権交代の1年前ですから、もう随分昔のような気がいたします。
金井利之先生が「分権改革のいまをどうみるか」について話された講演の内容がブックレットになっていることを今日、このHPで遅まきながら知りましたが、購入するかどうしようか迷っております。
http://www1.ubc.ne.jp/~jichisoken/publication/booklet/booklet02%2001-20.html
それよりもこのHPの先月分のコラムを読んで渡辺京二という名前を初めて知り、むしろこちらを私もちょっと覗いてみたくなりました。以下のとおりかなり評判の方のようですね。

70年代末に『北一輝』で毎日出版文化賞を、それから20年を経た90年代の末には『逝きし世の面影』で和辻哲郎文化賞を受賞した。そして昨年、『黒船前夜 ― ロシア・アイヌ・日本の三国志』で3度目の大佛次郎賞を受賞したのがきっかけとなったのか、入手しにくかった同氏の論説が新たに文庫本や新書版で編纂・復刊。

渡辺京二の作品を読む
http://www1.ubc.ne.jp/~jichisoken/column/2011/column201111.htm
読み易そうなのは、例えばこれらでしょうか。

北一輝 (ちくま学芸文庫)

北一輝 (ちくま学芸文庫)

文庫版あとがき(2006.11)より


 久しぶりにこの本を読み返してみて、もし北一輝もそのひとりに含まれる昭和前期の思想家の群像をいま描くとすれば、その光源と視角は30年前とはかなり異なったものにならざるをえないことを悟った。むろん、それは私の北一輝理解が変ったということではない。北に関して私は言うべきことはみな言っていて、30年前の自分の頭を「おまえはよくやったよね」と撫でてやりたいくらいだ。だが、それは終った仕事である。自分が描いた北の像について、私は一点の修正の必要も認めない。ただ、私自身の課題がそういう北の像を遠く置きざりにせざるをえなかったというだけである。
 今は亡き葦書房の社主久本三多君は、私をひいきにして売れぬ本を何冊も出してくれたが、ある日「あなたの本のなかでは『北一輝』が一番好きだ」と言ってくれた。この言葉でこの本に関する私の労役はすべてむくわれたのである。

逝きし世の面影 (日本近代素描 (1))

逝きし世の面影 (日本近代素描 (1))

3 葦書房渡辺京二氏 02/11/16

渡辺京二氏の『逝きし世の面影』(和辻哲郎賞受賞)は、刊行以来ロングセラーをつづけていますが、つい先日、某取次では同書は絶版扱いにして書店からの注文を受けないとの話を聞き、びっくりしています。某取次からも同書の注文はきていますので、たまたま当の担当者の勘違いか何かで絶版扱いにされたのだと思いますが、『逝きし世の面影』は在庫は十分にございます。どしどしご注文ください。
本書は題名どおりに、われわれ日本人が失ったものは何かを、外国人という「外部」の目を反射鏡にしつつ明らかにしたものです。豊富な資料を博捜して書かれた大部なものですが、読み出すと、本の厚さを忘れてしまうほどです。

渡辺京二氏の新著は『評論集成』として、『日本近代の逆説』(渡辺京二評論集成Ⅰ)『小さきものの死』(同Ⅱ)『荒野に立つ』(同Ⅲ)『隠れた小さい径』(同Ⅳ)が刊行されています。渡辺氏は主要執筆者のお一人ですが、創業者の久本三多は、葦書房を経営する上で、渡辺氏からは思想的に多大な影響を受けております。葦書房の地方出版としての位置の定め方も、渡辺氏の思想に負うところ大ですが、氏の長年にわたる著作をまとめた『評論集成』を前にしますと、渡辺氏のお仕事の重みとその大きさに思いを新たにいたします。近年、渡辺氏の著作が広く読まれていますのも、時代が渡辺氏を求めている証左であろうと思われます。

なお、葦書房に関するいろいろな風評が飛び交っておりますが、少人数ながらも元気に営業をつづけております。よろしくご支援、ご協力を賜りますようお願い申し上げます。(久本福子

http://www1.ocn.ne.jp/~ashi/ashinissi1-15.htm#watanabe-kyoji

「逝きし世の面影」絶版 05/6/8

『逝きし世の面影』が在庫切れになって、1年以上経っております。今も注文が絶えず、本来ならば、万策を尽くして早期に重版すべきところですが、絶版にいたしましたことをお伝えすることになりました。本サイトでも『逝きし世の面影』紹介ページにて絶版表示をいたしましたが、お詫びやご説明をせずにまいりましたこと、申し訳ございません。小さな文字で絶版表示をするだけでは済まされない事態であるということは、重々承知しておりましたが、正直なところ絶版という事態をさらに公にする決心がつきませんでした。というのも、本書「あとがき」で著者の渡辺京二氏も述べておられますが、本書は渡辺氏の新刊刊行を長年望んできた久本三多の願望を叶えたものでもあったからです。

渡辺氏と葦書房・久本三多との関係はほぼ創業間もない頃からはじまりましたが、渡辺氏と三多との関係は著者と版元との関係を超えるほどの強いものでした。すでに別のページにも書いておりますが、三多は渡辺氏に対し、出版社葦書房の行方を見定める羅針盤と見ているようなところがありました。ですから渡辺氏の著書の刊行は、葦書房にとっても三多にとっても、命のようなものであったはずです。三多が渡辺氏に対し終生強い思いをもちつづけ、新著の刊行を望んだのもそのためでした。

1990年代初め頃、わたしは河合塾で講師をはじめましたが、渡辺氏は当時すでに河合塾の人気講師として塾内外に広く知られた存在でした。わたしは週に1,2回の授業で渡辺氏とは顔を合わせる機会はめったにありませんでしたが、三多は河合塾へも出向き渡辺氏と会っていたようです。渡辺氏の新著刊行をなんとか実現させたいとの思いがあったのだろうと思いますが、それが『逝きし面影』として三多の死後に実現しようとは、当時夢にも考えていませんでした。そもそも三多の死そのものが、夢想だにできぬものでした。

いずれにせよ本書は、刊行以来大反響を呼び、「和辻哲郎文化賞」も受賞したしました。今に至るも注文が絶えませんが、実は2003年5月に平凡社から版権譲渡の申し入れがありました。当時も注文が絶えず、現役でどんどん売れている渦中にある本の版権を譲渡せよとは何事か、といささか怒りを覚え、即座に断りました。そして同年03年10月に10刷目を刊行しました。

02年10月にわたしが葦書房の経営を引き継いだ当時は、三原時代に増刷した『逝きし世の面影』9刷分がほとんどそのまま倉庫に残っておりました。しかし02年の年末頃から03年の年明けにかけて動きが活発化しはじめ、以降、注文は途絶えることなくつづいておりましたが、平凡社から版権譲渡の申し入れがあったのは、ちょうどその頃のことです。9刷分の在庫の山も半年余りで見事に消えてしまいましたが、それでも注文が絶えず、同年10月に10刷目を重版しました。

しかしこの10刷も半年ほどでなくなりました。当然11刷も重版する予定で書店をはじめ読者の皆様にもその旨お伝えし、待っていただいておりましたが、予定がどんどん延びて、在庫切れが1年以上もつづくという事態にまでなっております。なぜ売れる本なのに重版しないのかと思われるかもしれませんが、ある時期から売り上げが急減しはじめ、資金繰りの目途がまったく立たない状況にあるからです。02年9月末の代表交代時には全新聞に大騒動として報道され、かなりのダメージを受けての再出発でしたが、売り上げが急減するなどということは起こらず、巨額負債もあえぎながらも返済しつつ、新刊や重版も何冊も刊行してきました。

しかし突然の売り上げ減に見舞われ、その回復もすぐには望めないと思われますので、やむなく当初は怒りをこめて断った平凡社に対し、本年05年3月24日に、こちらから版権譲渡を申し入れました。しかし今日までその事実を公表できずにきたのは、当社への信用失墜を恐れたこともありますが、上に述べたような心情的なふっきりがなかなかできなかったからです。実は、今日は久本三多の命日に当たります。霊を弔うには悲しい出来事ですが、三多への報告もかねて皆様にお知らせ申し上げます。

長らくお待たせいたしましたままで、絶版のご報告をしなければならずほんとうに申し訳なく存じますが、ご容赦ください。なお平凡社からは今年の末か来年早々に平凡社ライブラリーとして出版される予定だとのことです。

平凡社から刊行 『逝きし世の面影』が、9/9に平凡社ライブラリーとして刊行されます。2、3日前、平凡社から同書が送られてきましたのでお知らせします。(05/9/7)

http://www1.ocn.ne.jp/~ashi/yukishiyo-zeppan.htm

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

葦書房
http://www1.ocn.ne.jp/~ashi/index.html
http://www1.ocn.ne.jp/~ashi/watanabe-kyoji.htm