センの著作

The Idea of Justice

The Idea of Justice

表紙的には英版の方が私の好みなのですが、中味は同じ。結局、米版の方が Amazon では安かったので、こちらを購入しました。
ペーパーバックが出るのを待ちきれずに買った洋書は Democracy and Disagreement 以来。
今度も喫茶店等に常に携行して、しかしながら余り細かいところにはこだわらず、こちらは最後まで読み終えたいものだと思っています。
Democracy and Disagreement

Democracy and Disagreement

そういえば私はこれまでアマルティア・センの著作をまともに読んだことがありませんでした。ロールズの正義論でもかなりその論文が引用され、たしか「センの議論」という章まであったと記憶していますが、この経済学者にして哲学に造詣の深い方の著作に初めて本格的に挑戦する訳ですので、日本語の参考文献としてこんなところをおさえておきたいところです。
福祉と正義

福祉と正義

福祉の経済学―財と潜在能力

福祉の経済学―財と潜在能力

正義の経済哲学―ロールズとセン

正義の経済哲学―ロールズとセン

価値理念の構造―効用対権利

価値理念の構造―効用対権利

以下、Amazon の T.Mohr (松山市) さんの書評。どうもありがとうございます。勉強になりました。

社会的孤立からの解放  2010/5/12


 著者について前知識なく読んだレビューであることをお断りしておく。著者は、ロールズの正義論から啓発されたことを断りながら、彼の正義論の限界を指摘する。センは、これを方法論的に transcendental institutionalism (超越論的制度主義)と呼び、自らの Realization-focused Comparative Perspective (現実志向型対比視点)を対置させる。Hobbes, Rousseau, Kant など契約論的系譜に属するとされる前者の問題点について、センは以下のように語る。要は「正しい制度は・・・?」と問うことで正義の問題を尽くすことはできない。なぜなら「どんな正しい制度」でもその運用において不公正や不正義が避けられないのだから、その現実の不正義を問題にする態度を堅持することが重要なのだということになる。こうした立場から彼が依拠するのは、コンドルセ、ウルストンクラーフト、スミス、ベンサム、J.S.ミル、マルクスなどである。例えば、ウルストンクラーフトは、E.バークがイギリスによるアメリカの支配を批判し後者の独立と憲法(正しい制度)を支持するが、独立したアメリカの実態としての奴隷制(上記制度の下で生じている不公正)には言及しないことを批判する。彼が依拠するのは正義をみるこうした視点なのである。

 第二部を締めくくる章では、古代サンスクリット叙事詩マハバーラタの偉大な英雄戦士アルジュナとその従者であり神の化身といわれるクリシュナとの間の見解の相違が取り上げられる。比喩的に言うとアルジュナハムレットのような立場に立たされ、従兄弟が不正な手段で就いている王位を奪還する戦いに踏み出すことを逡巡する。クリシュナは「結果を考えずに自らに課せられた義務を果たすこと」こそが正義(←動機を重視する義務論的正義観)なのだと説く。しかし、アルジュナは自らの決断がもたらす数多くの犠牲を想像する、つまり Consequence-sensitive な包括的結果主義の立場から正義の意味をより深く吟味しようとするのである。この違いをセンは安っぽい「正義」の戦争に赴いたブッシュ政権のもたらした悲惨を事例に検証する。センは、こうした包括的結果 Comprehensive outcomes を重視する結果主義を、それが生起した諸過程との連関を切り離した結果 Culmination outcomes のみを重視する成果主義的結果主義とも区別する。

 ところで、アメリカのブッシュ前政権は、「大量破壊兵器が存在する」というイラク攻撃の最大の口実を失った後、「独裁政権を倒してイラク国民に民主主義を与える」と戦争目的を変更した。これに対して国際世論は、1)武力による押し付けは間違いだ、という反対理由の他に、2)民主主義は、それを支える共和制という固有の伝統に支えられなければ意味はない、とする批判が聞かれた。この2)が提起する問題についてセンは「公共的論理 Public reasoning が直接必要とされ、力を持つのは、歴史的に継承された伝統や信念によるというよりも、「制度や慣習が提供する『議論する機会や意思疎通機会』による」として、民主主義の理念的普遍性を擁護する。ここでも投票制度など制度指向型の思考を脱却して「公共的議論」に焦点を当てる理念重視の民主主義理解が必要だと説く。その意味で、インドや中東はじめ世界どこにでも民主主義の芽は存在するのだとし、日本については聖徳太子の17条憲法の条文にもその精神が宿るとされる。
 他に、センはロールズの Primary Goods の配分を基準とする公正さにも疑問を呈する。彼の立場は freedom-based capability Approach であるとされ、財そのものの平等な配分や、結果的に選択された行為がなんであるかが問題なのではなく、各人がそれぞれに所持する財に基づいて行為する際の自由度、あるいはどんな選択肢の中で選択された行為であるか、というところで不平等・不公正がないかどうかを見なければならないという。この点で、客観的な財の質を広げてその配分の不公正を問題にする、同じ Capability Approach を志向するM.ヌスバウム等とも見解を異にする。

 ロールズの格差原理に対する理論的批判は、排他的無視 Exclusionary Neglect、内包的矛盾と焦点集団の可塑性 Inclusive Incoherence and Focal group plasticity、および手続き的偏狭さ Closed Impartiality and Parochialism の問題として3点に渡って展開される。その際、アダム・スミスのより開かれた「公平な観察者」視点との対比で、ロールズのそれが一つの社会や国家に限定される閉じられた公平性であることが問題だとされる。

 最後に、ロールズなど制度論的立場をとる論者と自らの立場に共通する「正義」への視点は何かと問いかける。そこでホッブズによる「自然状態」における人々の孤立状態の描写が引用される。センはそれが世界のどこで起こっていることであるにせよ「意思疎通も協力し合うこともない孤立的な生活に不可避的に追いやられている人々」の存在について理解を深め、共感を持って論ずることこそ人間生活の質を確保する上でも、他の剥奪を理解し、それに対応するうえでも最重要課題であると結論付ける。これは、遠いアフリカの問題であるだけではなく、OECD統計で、世界第一の相対的貧困率を誇るアメリカや、第二位につける我が日本で進行している事態そのものでもある。正義の今日的な意味を考える上で特に示唆的な問題提起であると思える。(7/13 一部修正)